ムエタイ入門(1回)
「タイ式ボクシング?一体なんですかそれは?」
「ふむ。僕が国際式のボクサーを連れてタイに行ったときだ。初めてそれを見て、見ると同時に信じたんだ。これぞ史上最強の格闘技だとね」
「くだらん。それですか?あなたが空手に優るというのは?」
「うん。そうだ」
「そんなものなら見なくても断言できる。史上最強はあくまで空手です」
「いや、タイ式ボクシングだね」
「違う!空手に優るものはない」
「眼を開きたまえ。君は井戸の中に住んでいるんだ」
「分からん人だな」
「いやいや。分からんのは君だ」
「黙れ!取り消せ。地上最強は絶対に空手なんだ」
「タイ式ボクシングだ」
キックボクシングのオールドファンであれば、これが何のやり取りなのか分かるだろうか。これは、1969年(昭和44年)少年漫画雑誌に掲載され、翌1970年からはテレビ放送された『キックの鬼』の第一話に出てくる野口修氏と沢村忠の会話シーンである。タイ式ボクシングとはもちろんムエタイのこと。当時キックボクシングという名称で日本に紹介された。
今の格闘技界を取り巻く状況からは想像しがたいが、読売ジャイアンツの王貞治や長嶋茂雄が活躍していたこの当時は、民放4局がこぞってキックボクシングの試合をテレビ放送するような時代であった。そしてそのキックボクシングブームの火付け役であり、そもそもキックボクシングという名前の生みの親である野口修氏とキックボクシングが生んだスーパースター沢村忠。この2人が出会った1960年代中頃、冒頭のようなやり取りがあったという。
『キックの鬼』は、日本の武道である空手を時折前面に押し出しながらも、それまで東南アジアのマイナー競技あったムエタイを野口氏と沢村忠の二人が日本に広めていく物語である。元々ボクシング畑の出身であった野口氏はムエタイの試合を見て感動し、これをキックボクシングという名前で日本に広めることを決意。そこで将来の看板選手として目をつけたのが、剛柔流空手出身で全日本学生選手権の優勝者でもあった沢村忠である。
当初“地上最強の空手”を信じて疑わなかった沢村忠だが、タイ人との2戦目で16度のダウンを奪われ惨敗。病院のベッドの上で「野口さん!俺は改めてタイ式に挑戦する。タイ式が強いことは身をもって知った。しかしこのままおめおめと引き下がるわけにはいかないんです。タイ式を俺に教えてください」と懇願し、キックボクシングの修行に明け暮れるようになる。沢村忠のサクセスロードの幕開けである。漫画/アニメなのでそれなりの脚色もあるだろうが、野口氏が沢村忠をけしかけてこの新興格闘技のスター選手に育て上げたというのは本当の話であろう。
野口氏がキックボクシングという名称を考案した理由には諸説があるが、著者は単純に「ムエタイ」というタイ語の発音が日本人には難しかったからではないかと思っている。実際、カタカタ読みで「ムエタイ」と言ってもタイではまず通じない。同じカタカタ読みでも「ムエタイ」よりは「ムアイタイ」の方が発音的には近いが、それでもやはり微妙に違う。むしろ英語式に「タイボクシング」と説明した方がずっと簡単に通じる。なにしろ今とは比較にならないほど外国語に対する予備知識が少なかったであろう50年前の話である。日本人には聞き慣れない上に、タイ人にも通じないような名称を使うより、誰が聞いてもすぐに覚えられるような名称を用意する必要があったのだろう。
実際、この和製英語である「キックボクシング」という言葉はあっという間に世界に広がっていく。タイのハードコアなムエタイ関係者の中には、自国の格闘技をコピーしたとして、未だにこのキックボクシングという言葉に嫌悪感を持つ人も多いため、軽々しくその功績だけを称えることはできないかもしれないが、野口氏なしに世界レベルでのムエタイの歴史を語ることができないのも事実ではないかと思う。
それではその野口氏を魅了したムエタイとは一体なんなのか?今一度じっくりと考えてみよう。
徳重信三
~次回に続く~