ムエタイ入門(9回)
トン(バーンプリーノーイ)の兄貴は、一昔前、7チャンネルスタジアムなどで活躍していたムエタイ選手であったが、不運なことにバイク事故で亡くなってしまったそうだ。そしてその兄貴が使っていたリングネームもバーンプリーノーイだったという。つまり、トンは亡き兄貴のリングネームをそのまま引き継いだ形でスターダムにのし上がろうとしているのだ。
現在フライ級(51キロ程度)のトンだが、175センチの長身から繰り出す前蹴りや膝は相手の突進を止めるのに効果抜群であり、また、長身の割にはスピーディーな左右のミドルは、相手のパンチを殺すのに威力を発揮する。それだけではない。接近戦での鋭い肘は切れ味抜群で、1月29日、ルンピニースタジアムでのホントーンレックとの対戦では、血みどろになるまで相手の顔を切り刻み勝利している。さすがに名トレーナーの評価が定着しているグライスウィット・スンキラーノーンキー氏の元で練習しているだけあり、まさにムエタイ用語で云うところのクロップクルアン(全て備わっている)という感じである。
しかし、ここまでのトンのムエタイ人生も決して平坦であったというわけではない。毎日のようにジムに顔を出す父親の厳しい監視下の中、ムエタイを続けてきた。傍から見ていても彼自身練習が好きそうにも見えないし、むしろ父親からやらされているようにも見える。まだトンが中学生だった頃、学校だかジムだかをさぼり、父親に棒きれで体中を叩かれたこともあったそうだ。まあ、もちろんトンのようなケースばかりというわけではないが、父親の情熱に応えようと頑張っているムエタイ選手たちがいるというのも事実である。
ムエタイの世界においては、「オーナー」の存在が付きまとうものである。選手の「オーナー」というのは必ずしも所属ジムの会長というわけではない。有望な選手には、所属ジムの会長とは別にいわゆるスポンサーがいる場合も多い。所属ジムの名前とは違うリング名を持った選手が多いのもこれらの「オーナー」やら「スポンサー」の名前を冠しているためだ。そして、こういった選手は自らの「権利」と引き換えに金銭的代償を受け取っているため、選手がジムを移籍したり、リングネームを変えたりする場合に契約金の問題が発生することもある。ジムの会長を会社の社長に例えるなら、「オーナー」や「スポンサー」は株主のような存在といえるかもしれない。
ちょっと話が横道に逸れるが、ジム(スポンサー)名がコロコロ変わることで有名なあのセーンチャイは、バンコクで試合をするようになった10代中頃、タイ初のオリンピック(ボクシング)金メダリストであるソムラック・カムシンに30万バーツで「買われた」が、2006年頃だったか、日本遠征をめぐって仲たがいした際、今度はコーンケーン市の老舗ジムであるキングスタージムに同じ金額で「売られた」。こういう例は枚挙にいとまがない。
トンの場合にも最近新オーナーの話が持ち上がった。練習は引き続き96ピナンジムで行い、リングネームを現在のバーンプリーノーイ・96ピナンからバーンプリーノーイ・トー・テープスティンに変更しないかという話である。額は良く覚えていないが確か15万バーツ程度の契約金の話であった。結局、この話は流れてしまったのだが、筆者が96ピナンジムを訪問した去年の8月頃、トンの父親はこの件について意気揚々と語ってくれた。15万バーツというと、最近のレートでは約50万円程度だが、一般的なタイ人にとっては結構な額である。父親が色めき立つのも無理はない。さすがに権利金の取り分までは父親に聞けなかったが、息子のお金と自分のお金の境界線が曖昧なのだろうと思う。
ムエタイ業界、とりわけバンコクのムエタイシーンにおいては、選手の「権利」を買ったり売ったりすることは日常茶飯事である。その様子はおおよそ先進国で云うところの人権などとは相反するものかもしれない。ちょっと話が脱線するが、タイ語で売春のことを「カーイトゥア」という。「カーイ」は「売る」という意味であり、「トゥア」というのは(自)身という意味である。日本語に置き換えると、そのまま「身売り」である。売春婦がそのまま「悪」だとは思わないし、「かわいそう」だとは思いたくもない。ましてやムエタイ選手と売春婦を比較するような乱暴なことはしたくないのだが、両者に共通点が全くないかと云われればそれも違う気がする。
いずれにせよクローントゥーイスラム街の高架線下、足の裏を真っ黒にしながら練習に明け暮れている選手たちを見ていると、やはりここには苛酷なムエタイ選手の現実があるのだという気になってくる。それにどんなに練習しても負けるときは負ける。ムエタイでは賭けが成り立つように常に実力の伯仲した選手同士の試合が組まれるのだからそれも仕方のないことなのだ。
つい先日の2月26日、ルンピニースタジアムで行われたプライアナン興行のメインイベントに登場したバーンプリーノーイは、ワンチャナ・オー・ブンチュアイと対戦したが、僅か1ラウンド、壮絶なノックアウト負けを喫している。興味のある方は是非以下の動画を見て欲しい。
http://www.youtube.com/watch?=GMcVKNRxiQc&feature=youtube_gdata_player
さて、今回はトン(パーンプリーノーイ)のことを取りあげたが、実際には他にも何人もの選手が様々な事情から96ピナンジムにやって来て、ともにここで汗を流している。今後機会があれば他の選手にもスポットを当て紹介させて頂
きたいと思っている。
~続く~
シンラパムエタイ/徳重信三
写真『トン(バーンプリーノーイ)と彼の父親』